とらすと通信

平和教育について考える(1)

連日ウクライナ情勢が報道され、世界中が事態の推移を注視しています。また西側各国がロシアに対する制裁やウクライナに対する支援などに動いています。ここで、学校における平和教育について、筆者が日ごろから考えていることを書いてみたいと思います。すみませんが、援助資源マップの理解のしかたについては一旦お休みさせていただき、後日再開したいと思います。

とらすと通信2022年4月号「平和教育について考える(1)」

日本の学校における平和教育の功績

先の大戦は日本が敗戦という形で終結しました。学校教育においては、深い反省に立ち、二度と戦争を起こさないという決意をもって「平和教育」に取り組んできました。主に戦争の悲惨さを子どもたちに伝え、平和の大切さを感じられるようにさまざまな工夫がされてきたと思います。

その成果として多くの日本国民は戦争を忌避し平和を愛する心情をはぐくんできました。そしてこの取り組みと工夫は世界的にみてもあまり例がないかもしれません。

人はなぜ争うのか?という問い

では、「平和の大切さを深く理解すれば戦争が回避できる」かというと、それはあまりに希望的観測に過ぎないと思います。今回のウクライナ情勢をみればそれは明らかでしょう。

平和を維持するには、まず「人はなぜ争うのか」「争いを回避するにはどう行動すべきか」ということについて深く洞察する必要があると思います。つまり、深い「智慧」が必要でしょう。

人はなぜ争うのでしょうか?争っている当事者も必ずしも争うことを望んでいるとは限りません。むしろ望まなくても争いに巻き込まれてしまうことの方が多いのではないでしょうか。

人の生存の現実を考えれば争いになる理由は明らかです。人がこの世界において命を長らえ、子孫を残していくためには、水・食料・生活の場などの「資源」が必要です。資源が豊富にあり、みんなに無理せず分配できる状態であれば争いは激しくならずにすみます。日本の歴史を見ると、日本国内は非常に平和な状態が長く続いていました。特に江戸時代は世界的に見ても極めてまれな太平の時代が長く続いています。それは日本という国が農業資源・水産資源・鉱物資源などに恵まれた非常に豊かな国土だったということが大きな要因の一つだと思われます。

しかし資源があまり豊かでなければ、限られた資源をめぐってどうしても争いが起こりやすくなります。大陸における戦争や紛争の歴史からそのことがうかがえると思います。

人の生存においては「争い」が常態

ここで、押さえておくべきことは、人の生存においては「平和」が常態なのではなくむしろ「争い」が常態であるということではないでしょうか。そしてそれは個々人が望むかどうかではなく、人が生存し子孫を残していくためには資源が必要であり、その資源は限られているというこの世界の「原理」に根ざしています。

したがって、平和を考えるためには、まずこの人の生存における事実をまずしっかりと理解し、その上でどうすれば争いが回避できるかについて考えることが必要と思います。「人と人が信頼しあうことが重要」「話合いによって解決することが重要」というメッセージだけが先行すると、人の生存における事実がぼやけてしまい、結果として争いを回避することができなくなると思います。

≪次回に続く≫