とらすと通信

「お手伝いのすすめ」

子どもが家事などのお手伝いをするする家庭はかなり減ってきていると思います。このことは子どもの発達にどのような影響を与えているでしょうか?

とらすと通信 2020年8月号「お手伝いのすすめ」

大人にとっての日常生活

大人にとって日常生活がどんなものか振り返ってみましょう。日常生活の大半の時間は仕事と家事に費やされていると思います。仕事も家事もどちらも自分のためでもあり,家族やほかの人の利益につながるものです。ルーティーンの部分も結構多いものですが,一定の生活状態を維持するためには,これらを毎日繰返していくことが必須です。

私たちは生活する共同体の一員として仕事や家事の負担を背負うことではじめてこの世界で生きていくことができます。子どもの「お手伝い」とは,生活する共同体の一員として,子どもができる範囲の負担を背負うということです。

「学校の勉強が子どもの仕事」か?

よく子どもは「学校の勉強をするのが仕事」という言い方がされます。「大人は働いたり家事をこなすのが仕事だから,子どもの時代は学校の勉強をすることが仕事だ」という意味でしょう。では,「仕事や家事」と「勉強」はどこが違うでしょうか。それは,仕事や家事は生活の共同体の一員として生きていくために必要な負担を背負うことなのに対し,勉強はその要素がないということです。そういう意味では,「学校の勉強は仕事」とは言い難いと思います。

お手伝いを経験せずに成長する子ども

現代では多くの家庭で子ども時代にお手伝いを経験することなく大人になっています。その場合の課題は「生活の共同体の一員として一定の負担を背負うのは当然である」という感覚が育たないということです。例えば,まったく家事をした経験がないと「家の中や着るものが常にきれいに使え,テーブルに座れば三度の食事がつくられている」という状態が「当たり前」という感覚になります。その状態を維持するために親がいかに悪戦苦闘しているかが全く理解されません。

一人暮らしを始めたり,結婚したりして親元から独立して初めてその大変さを実感することになります。しかし,子ども時代にそういう形で体を動かす訓練がなされておらず,生活の維持のために相当に苦労することになります。また夫婦生活における役割分担がうまくいかず,夫婦喧嘩の原因にもなります。

生きているという実感の欠如

また,「学校の勉強=概念操作の訓練」ばかりやらされていると,自分が「この世界に生きている」という生々しい実感が得られにくくなります。仕事や家事は大変ではありますが,そのことは必ず誰かの役に立っているものであり,その活動を通してどこかで「生きている実感」を得ることができています。これは学校の勉強ばかりしていても得ることができません。子どもたちが「生きている実感がない」というニュアンスの言葉を発することがありますが,その言葉はこのことが背景になっている部分が大きいのではないでしょうか。

お手伝いの工夫

以上のことから,子どものお手伝いを今一度見直すことが子どもの発達を保障する上で必要だと思います。ポイントをいくつか挙げておきます。

まず,子どもの体力や発達の程度にみあったお手伝いの内容にすることです。現代は家事に関しても家電の発達によってかなりやることが軽減されています。子どもにできる作業がなかなか見つからないという問題もあると思います。そこは工夫次第で,例えば「玄関の掃除だけは箒と雑巾を使って子どもにやってもらう」ということも可能だと思います。また,時間がかかりすぎて毎日の学校の宿題がこなせないという状態でも困ります。量的なものを子どもの状態に合わせて適切なものにすることが必要でしょう。

次に,負担に応じた報酬を与えることです。仕事をしたらお小遣いをあげる,というような形です。これには若干抵抗を感じる方もおられるかもしれませんが,負担を背負ったら報酬を得るのはごく当然のことです。子どもにとっては,それがお手伝いへの親からの評価にもなりますし,動機付けにもなります。

最後に,子どもがお手伝いをさぼった場合の対処法です。多くの子どもは面倒な仕事をさぼりがちになるものです。これを放置すると,せっかくの取り組みがムダになってしまいます。このことが大変なので,お手伝いをさせるのを断念してしまう親も多いと思います。かといって親が叱責するばかりだと,だんだんお互いに嫌になってしまいます。取組みを始める前に親子で話し合ってペナルティを決めていくのはいかがでしょうか?できていなければ,叱責の代わりにペナルティが与えられるという方がお互いに冷静に対応していけるでしょう。