前回から平和教育について考えています。
人と人が争いになる原因は、生存に必要な資源(水・食物・生活の場・エネルギーなど)は限られているということを指摘しました。資源が少なければ当然争いが激しくなる傾向があります。そのことから考えると人の生存において「平和」が常態であるというより「争い」が常態であるととらえたほうがより現実に近いのではないかと思います。
とらすと通信2022年5月号「平和教育について考える(2)」
生存をめぐる戦略
具体的に次のような状況を想定して考えるとわかりやすいかもしれません。
2人の空腹な人がいたとします。2人の間にパンが1個ありました。貴重な食べ物ですから2人ともパンは食べたいでしょう。1個のパンをどのようにするかが2人の課題になります。
生き延びるための方策としてそれぞれの人はさまざまな行動をとることが可能です。
相手を暴力的に制して自分がパンを全部取ってしまうこともできます。
空腹を我慢して相手にすべて与えることも可能です。
また話し合って一定の割合で分けあうことも可能です。
暴力的に相手を制してパンを奪うことができれば、すべてを得ることができ、生存率を高めることが可能になります。しかし、この場合相手が反撃することもありえます。攻撃を仕掛けた側が傷を負うリスクもあるわけです。
また、力の差が大きく、反撃されずにパンすべてを得たとしても、奪われた相手からは恨みを買うことでしょう。将来的に「仕返し」となって返ってくる可能性もあります。
空腹でもすべて相手に与えれば、自分は生存していくことができないかもしれません。意識では納得しても、感情的に相手に恨みを抱くことになるかもしれません。
話し合いによってパンを分ければ、丸ごと1個得るより少ない資源しか得ることができません。しかし、上記2つの方法で生じるリスクは避けることができます。
また、「人の痛みを自分の痛みとして感じることができる」という人間がもつ特性(=共感性)から考えると、自分も相手も痛み分けという解決策は心の傷を生じさせません。
したがって、話合いによって分配するという方法がもっとも安全で安心な方法と言えるでしょう。
どの戦略を採用するかは個の自由
しかし、ここで問題なのは、どの戦略を採用するかは基本的にそれぞれの自由であるという点です。自分が話合いを望んでも相手は暴力に訴える方法をとるかもしれません。そうなると社会は大混乱に陥ります。
そこで、国家内においては、倫理規範が働き、法律がつくられ、法律を機能させるための司法制度が働きます。自分だけ得をするようなことを考え行動すると司法制度によって罰せられることになります。司法がきちんと機能するための強制力として警察制度があります。余談ですが、日本は世界の中でも最も司法制度が公平に運用されている国の一つではないでしょうか。
国際社会における秩序
国家間の問題も上記と原理は同じです。そこで、国際社会においても国内法に準ずる国際法がつくられ、国際司法裁判所も設置されています。
しかしながら、国際法も国際司法裁判所も、国際法違反が起こった場合、それを強制的に止める力があるかというと、それはないというのが現実です。したがって、国際法や国際司法裁判所の決定に従わない国があったとしてもそれを止めることはできないのが現状と言えます。国内の秩序維持における警察機構のような働きがないからです。本来国連がそういう役割を果たすべきなのですが、現実には全く機能しないことは戦後の経緯から明らかです。
そこで、問題になるのは、国際社会において戦争という事態を回避するためには国家としてどう振る舞うべきなのか、ということです。
単純に戦力を放棄すれば戦争が回避できるのか、というとどうもそうではなさそうです。それは今回のウクライナの状況を見れば明らかでしょう。
話し合い(=外交)努力によって必ず戦争が回避できるかというと、相手が話合いを望まなければそれも無理ということです。
平和教育を再考する
ここで結論を出すことが意図ではありません。主張したいことは、「人と人との争い」そして「戦争」というものについて、上記のようにその原理から考えていくことが必要なのではないかということです。したがって、平和教育を実施するにあたって、このような視点を子どもたちにも提供し、子どもたち自身に考えさせることが必要なのではないでしょうか。
前回の冒頭に書いたように、単に「戦争はいけない。平和が大事。」ということを主張するだけでは具体的にどのような行動するべきかが見えてきません。結果として戦争を引き起こすことになれば、相手国も自国も深く傷つくことになります。社会が大きく変化しつつあるこの時にもう一度平和教育のあり方について考えていけたらと思います。